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2006年8月16日 (水)

忘れ得ぬストーリー

今年も8月15日がやってきました。この時期、毎年思い出す忘れ得ぬ話があります。私の母は今は病で入院しており、その真偽を確かめる術はありませんが、小さいころ、良く南の空を見ながら話してくれました...今も家には零戦の操縦席で微笑むパイロット達の写真が何枚か残っています。

私の母は太平洋戦争も敗色濃くなった昭和19年、看護婦として台湾の高雄に着任致しました。着任とほぼ同時に乗ってきた輸送船が空襲で撃沈され、その後も連日機銃掃射を浴びるほどの激戦だったそうです。

母のいた病院は海軍の戦闘機隊(と言っても恐らく特攻隊でしょう)と高射砲陣地のすぐそばであった為、海軍の方の入院患者が非常に多かったそうです、そしてその中に、長期入院をしている若いパイロットが一人いたそうです。当時20歳そこそこだったはずの母が「子供のよう」と言っていた記憶がありますので、恐らく10代の若いパイロットだったのでしょう。非常に明るい子で、皆ともとても仲良くしていたそうです。

やがて彼も治療の甲斐あって全快し、退院の運びとなったのですが、そのほんの数日後.....

なぜそれが彼の愛機とわかったのか、事前に挨拶に来たのか、顔が見えるほどの超低空飛行をしていたのか、又は機体番号を教えていたのか、今となっては知る由もありません。ただ、それは紛れも無く彼の乗る零戦だったそうです。腹には2番弾(250kg爆弾)を抱いて....

時に昭和20年8月14日夕刻。彼の零戦は別れを惜しむように病院の上を繰り返し繰り返し旋回、やがて夕焼け迫る南の空に消えて行き、2度と帰る事は無かったそうです。患者とはいえ母達にとっては激しい空襲の中を共に生き延びてきた友人も同様の彼、その彼が全快と同時に、しかも終戦前日の夕刻に、何故逝かなければならなかったのでしょう...

今もこの話をする時は涙をこらえる事ができません.....

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コメント

橋本さん、こんにちは。
とても悲しい話ですね・・。あと一日というのがとても・・。
お母様が生きていたのが奇跡ですね。どんどん風化していきますね。
本当に平和のありがたさ、戦争を始めた人の愚かさを知ることができるストーリーですね。

投稿: 緑川 | 2006年8月20日 (日) 18時59分

緑川さん、こんにちわ。
本当に悲しい話です。その光景をイメージすると、どうしても涙をこらえる事ができません。

又、高校の頃、担任の先生が卒業式の日に初めて実は人間魚雷「回天」乗組員であった事をわれわれにあかしてくれました。普段は厳格で恐かった先生が、その時だけは「まだお前達と同じ様な年だった友達が...みんな逝っちまったんだ!」と教壇で涙を見せたのが忘れられません。

今はたとえ苦しいことがあっても、「その時代に生きた人々に比べれば命まで取られる事は無いじゃないか」と考え、前向きに生きる様心がけています。

投稿: Kei | 2006年9月 1日 (金) 01時39分

卒業式の日に初めてそういう話をされると重みが増し、一生忘れられない思い出になりますね。先生も印象つけのタイミングが抜群ですね。

>「その時代に生きた人々に比べれば命まで取られる事は無いじゃないか」

まったくでございます。。日常つい忘れてしまいそうになります!

投稿: MD | 2006年9月11日 (月) 09時11分

8月15日に近所の自動車修理工場に行った。
そのおやじさん
「15ははな、 全機出発準備で 俺もコックピット内に居たが、
いつまで経っても出撃命令が来ない、何時間も、
ようやく、司令官が着たら全員降りて、集まれと言ったんだ。
そしたら今日のその日だ・・・・」
「その間、整備兵は全機のプロペラを一生懸命 外していて、飛べなくしていたんだよ。俺の零戦もな・・・・」

「その後 司令官が基地にあった ありったけの金をかき集め、上官、整備兵も関係なく
均等割りにし、配ったんだよ。
その金でみんな 何とか帰れってな。」

仲間も大勢亡くなってるのに、
しみじみと語っていました。

投稿: Tnaka_rd | 2006年9月11日 (月) 19時58分

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